明智光秀と妻木氏 その1   

「明智」という名字は、もともと妻木を本拠とした領主の名字です。

美濃の国(岐阜県の南半分・美濃地方)の守護として、室町幕府初代将軍であった足利尊氏に従った土岐頼貞の孫、彦九郎頼重が土岐明智氏の初代となります。暦応2年(1339年)2月18日付けの古文書に、祖父の頼貞が彦九郎頼重に妻木郷などを譲ったことが書いてあります。妻木郷は現在の曽木町・駄知町・下石町・妻木町・笠原町などを含む地域をいいます。頼貞は直後の2月22日に亡くなりました。頼貞は大富館(土岐市泉町)に住み、定林寺を創建した事でも知られます。頼貞の死後跡を継いだ頼遠は、京都に近い岐阜方面に館を移しました。

話を頼重に戻します。頼重は土岐本家に属することなく、独立した形で室町幕府に仕えました。足利将軍家から頼重宛の古文書には、「あけちの彦九郎殿」、「土岐あけち殿」

などとあります。また頼重の子氏王丸宛の古文書には「土岐明智」とありますので、代々「明智」名字にしたことがわかります。ちなみに恵那市明智を本拠とした遠山氏が「明智」を名乗っていますので、当時から「遠山明智」と「土岐明智」と区別して使われていました。

しかしなぜ妻木にあって「明智」の名字なのでしょうか。明智という地名は現在の可児市と御嵩町にまたがる地域を「明知庄」といいました。花フェスタ記念公園付近です。明知庄は平安時代から石清水八幡宮(京都府)の荘園があった所です。頼重は妻木を所領とする前は明知庄にいたのでしょうか。祖父頼貞に妻木郷を譲られて、妻木に本拠を移したのでしょうか。本当のところは分かりません。

頼重は文和3年(1354年)に果山禅師を招いて崇禅寺を創建しました。そして翌文和4年に死去し、戒名は「崇禅寺殿万春浄栄大禅定門」といいます。

崇禅寺は土岐明智彦九郎頼重が、果山禅師を招いて創建したお寺です。出身地や姓名、などわかっていません。果山は中国(当時は元)浙江省にある径山寺(きんさんじ)に渡り修行をしました。径山寺は径山寺みそ(金山寺みそ)の起源ともいわれます。

帰国後、虎渓山永保寺(多治見市)に保寿院を創建し、崇禅寺、永明寺(多治見市市之倉町)の開山となりました。応安3年(1370年)8月19日に亡くなりました。

写真は、土岐明智彦九郎頼重が、果山禅師を招いて創建した崇禅寺。山門の向こうに城山を望む。

崇禅寺から城山を眺める
崇禅寺から城山を眺める