妻木城の城主

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに、妻木雅楽助家頼(?忠)は父伝入(貞徳)とともに家康に味方し、交代寄合(参勤交代をする旗本)として、土岐郡内7500石の領主になりました。その後大坂冬の陣(1614年)、大坂夏の陣(1615年)によって豊臣氏は滅亡し、250年間の天下太平の江戸時代がはじまりました。妻木でも新しい町づくりに着手し、妻木陣屋(妻木城)跡や崇禅寺、八幡神社をはじめとして、窯跡や町並みなどの史跡や流鏑馬神事など、今の私たちが目にする妻木の風景がこの時代に作られたといっても過言ではありません。

初代 妻木伝入(貞徳・伝兵衛)

妻木伝入

妻木伝入

大永6年(1526)-元和6年(1620) 95歳
織田信長の馬廻り役を勤めたといわれます。天正10年(1582)本能寺の変で、信長が明智光秀によって討たれると、家督を息子の雅楽助に譲り、妻木村に隠居し剃髪して伝入を名乗りました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、西軍(石田三成)に味方する犬山城主石川備前守の元に末子がいたことから西軍に誘われたがこれを拒否し、東軍(徳川家康)に味方しました。家頼は妻木を離れることが多く、代わって伝入が在地を治めました。
元和6年8月9日95歳で死去し、崇禅寺に長寿院を創建し菩提を弔いました。

 

二代 妻木雅楽助家頼(頼忠・長門守)

妻木家頼

妻木家頼

永禄8年(1565)-元和9年(1623) 59歳
天正10年父伝入の隠居により家督を相続します。関ヶ原の戦いでは、父とともに東濃地方唯一の東軍として、西軍岩村城主田丸氏と各地で戦いこれを破りました。これにより土岐郡の旧領を安堵され、交代寄合格の旗本として大名に準ずる待遇を受けました。彦根城や加納城(岐阜市)の築城だは普請奉行を務め、元和元年(1615)の大坂夏の陣に従軍し戦功あげました。元和9年二代将軍徳川秀忠に従って上洛し、従五位下長門守に叙任しますが、その時病にかかり10月2日京都にて死去しました。崇禅寺に瑞松院を創建し菩提を弔いました。父伝入の死からわずか3年のことでした。

 

三代 妻木権左衛門頼利

天正13年(1585)-承応2(1653) 69歳
慶長5年、16歳の時人質となって江戸に行き、翌年4月に妻木に帰りました。元和9年父の死去により家督を継ぎました。寛永10年(1633)に木曽三川の普請奉行を、寛永13年(1636)には多賀大社(滋賀県)の造営奉行を勤めました。
承応2年10月1日病死し、江戸の正覚院に葬られました。また崇禅寺には墓碑が建立されました。

四代 妻木藤右衛門頼次

元和6年(1620)-万治元年(1658) 39歳
承応2年12月22日に家督を継ぎました。父頼利の存命中におこった兄弟不和(妻木騒動)により、次男兵九郎幸広(後の上郷妻木氏)に大富村500石を分け与え、頼次は7000石を知行しました。万治元年6月18日妻木にて病死し、崇禅寺に葬られました。一説に参勤交代の途中箱根の関で急死したといわれますが、根拠となる史料は存在しません。跡継ぎとなる男子は無く妻木本家は頼次で断絶します。その後妻木村上郷500石は弟幸広が大富から移り、妻木村下郷800石は一族の妻木彦右衛門頼熊(下郷妻木氏)に加増され明治維新まで続きました。