妻木煕子『麒麟がくる』光秀の源流・土岐明智氏と光秀に最も近い一族・妻木氏

1、光秀の源流 土岐明智氏初代 彦九郎頼重

土岐市美濃陶磁歴史館で開催中の特別展『光秀の源流 土岐明智氏と妻木氏』は必見です。これだけの文化財が一堂に展示されることは初めてです。中でも群馬県立歴史博物館に寄託された「土岐家文書」は初めての里帰り展です。土岐明智氏が妻木を本拠としていたことがわかる重要な古文書です。

土岐明智彦九郎頼重、祖父の頼貞より妻木郷他を相続する


上の文書は、暦応2年(1339)2月18日に、美濃守護土岐頼貞の所領であった妻木郷と多気庄(大垣市・養老町)の一部を、孫の彦九郎頼重が相続したことを、室町幕府が認めた文書です。これにより頼重を土岐明智氏の初代とします。

下の文書は、観応2年正月30日(1351)の将軍足利尊氏からの書状です。「あけちのひこ九郎殿」とあります。いずれも土岐家文書です。

このほかに20点ほどの古文書が展示され、室町時代から戦国時代かけての妻木の領主の動向がわかります。なぜ妻木の領主は「土岐明智」を名乗ったか。可児の明智の庄との関係はいかに。(写真は土岐家文書 群馬県立歴史博物館寄託)

2、明智光秀の妻は、妻木氏出身か 名前は煕子?

大河ドラマ『麒麟がくる』が始まりました。NHK出版のドラマガイド『麒麟がくる 前編』には次のようにあります。「光秀の正室煕子 美濃の豪族・妻木氏の娘。明智氏と妻木氏は、光秀の父の代から親しく交流する間柄。幼い頃は、父に連れられて妻木家をよく訪ねてきた光秀と子どもどうしで遊んだこともあった。」
ドラマでは、木村文乃さんが演じる煕子は、3月15日に登場し、4月5日放送分で光秀との結婚場面が予定されています。

史料にみる光秀の妻

当時の古文書・古記録など信頼できる一次史料はほとんどありません。明智光秀と親しかった吉田兼見が記した日記『兼見卿記』の天正4年に4ヶ所ほどでてきます。しかし、「惟日女房」とあり、光秀の妻である事がわかるだけで、個人を特定することはできません。惟日は惟任日向守光秀のことです。日記の中で5月26日に光秀の妻が光秀の病気平癒の祈願を依頼し、10月10日には光秀が妻の病気平癒の祈願を依頼しています。お互いを思いやる気持ちが強かったといわれます。

しかし『西教寺過去帳』天正4年11月7日に、「福月真祐大姉 明智惟任日向守光秀御臺」とあり、病気平癒の祈願もむなしく妻は死亡したのでしょうか。しかし『明智軍記』では天正10年(1582)6月14日に坂本城にて自害したといいます。

江戸時代の書物である『美濃国諸旧記』(江戸時代初期 著者不詳)や『明智軍記』(元禄15年・1702年 著者不詳)には「妻木勘解由左衛門範凞の女」とあります。妻木勘解由左衛門範凞に該当する人物は、史料や系図からは確認出来ません。

光秀の妻が有名になったのは江戸時代

光秀の妻が広く世間に知られるようになったのは、江戸時代に入ってからの事です。江戸時代は文芸が盛んになり、多くの人が歴史物に親しむようになりました。女性の逸話も多く取り上げられるようになりました。光秀の妻は夫を支え、光秀は生涯一人の妻だけを愛したという話が作られていきました。

(1)疱瘡にかかり、顔にその痕が残ったが、光秀はそれを受け入れ結婚をした

この話は、井原西鶴の『武家義理物語』(元禄元年・1688)にあります。「妻は近江の國澤山。何がしに美なる娘の兄弟ありて。」とあり、出身地は滋賀県であったことになります。父親は顔に痕が残った姉に代えて妹を嫁がせようとしたが、光秀は約束通り姉を選んだといいます。

(2)妻は自分の髪を売ってお金を工面した

越前の戦国大名朝倉義景に仕えていた時に、連歌の会の酒宴を用意するお金がなく、妻は黒髪を売って費用を工面したといいます。この逸話は、江戸時代中頃の武内確斎著『絵本太閤記』にあり、岡谷繁実著『名将言行録』(明治3年・1870)にもあります。同じような話は山内一豊の妻の逸話にもあります。

(3)芭蕉の俳句「月さびよ明智が妻の話せむ」

芭蕉は元禄2年(1689)『奥の細道』を終えて伊勢神宮に参拝しました。この時神職であった山田又幻の家を宿とし、貧しい夫婦の心をこめた接待に感謝して詠んだ俳句といわれます。光秀の妻の髪を売った逸話を話し、山田又幻の妻をねぎらいました。

明治時代以降になると、光秀の妻は内助の功の見本としてもてはやされました。

煕子の名前は昭和50年以降か

(1)大河ドラマで使われた妻の名前は
今回の大河ドラマでは「煕子」で登場しますが、以前に使われた名前は煕子とは限りません。「まき」と「ひろこ」が使われています。

昭和48年(1973)『国盗り物語』 お槙(おまき) 中野良子
平成8年(1996)『秀吉』    ひろ子    有森也実
平成18年(2006)『功名が辻』  槇(まき)   烏丸せつこ
令和2年(2020)『麒麟がくる』 煕子(ひろこ) 木村文乃

(2)煕子の名前は小説から、三浦綾子の『細川ガラシャ夫人』
「煕子」の名前が広まったのは『氷点』で知られる三浦綾子(1922年-1999年)からです。三浦綾子は『細川ガラシャ夫人』(昭和50年・1975年)で、「煕子」とし、名前だけでなく、煕子の逸話を全国に広めました。

その後、中島道子(1928年-)が『凞子 明智光秀の妻』・『濃姫と凞子 信長の妻と光秀の妻』・『湖影 明智光秀とその妻凞子』の三部作を出版し、土岐市や出身地の福井県などで講演など精力的な活動を行い、煕子の名前が一般に定着していきました。今では「ひろこ」が主流のようですが、これはあくまでもドラマや小説での名前である事を忘れないで下さい。

一方「まき」の名前は、細川家の『明智光秀公家譜覚書』に「妻木勘解由左衛門範凞の娘、於牧の方」とあることによるといわれます。江戸時代末期の『真書太閤記』(栗原柳庵著)にも「於牧」とあります。名前の最も早い例は、江戸時代中頃の『絵本太閤記』(武内確斎著)にある「照子 てるこ」です。「照子」は「煕子」を間違えたのでしょうか。

今年の大河ドラマ『麒麟がくる』では、「牧」は明智光秀の母の名前です。また恵那市明智町には、光秀の母「まき」の墓という石造物があります。しかし光秀の母親についてもわかっていません。

3、注目される光秀の妹「妻木」、光秀の運命を左右した女性

多くの史料に登場する光秀の妹「妻木」は織田信長のおそば近くにいた女性と考えられています。明智光秀が織田信長の重臣に取り立てられたのも妹の存在があったからなのか、妹の死によって光秀と信長の間に溝が出来ていったとも。

史料に登場する妹「妻木」

『戒和上昔今禄』
天正4年(1576)6月28日 惟任妹ツマ木殿
信長の使者として興福寺へ派遣された

『兼見卿記』
天正7年(1579)4月18日 妻木惟向州妹
惟任・惟向州は明智光秀のこと

『言経卿記』
天正7年5月2日 其他近所女房衆であるツマキ・小比丘尼・御ヤヽ

最も興味深い史料は

『多聞院日記』
天正9年(1581)8月20日
「去七日八日ノ比欺、惟任ノ妹ノ御ツマキ死了、信長一段ノキヨシ也、向州無比類力落也」
去る8月の7日か8日頃か、光秀の妹「御ツマキ」死去した。信長は一段ノキヨシ也、光秀は比べものにならないほど落胆したとある。「一段ノキヨシ」の解釈は諸説あるが信長のお気に入りという事だろうか。本能寺の変の遠因、光秀と信長の関係になくてはならない存在であったとする研究者もいます。

しかし、「妹妻木」は誰なのか特定するだけの史料はありません。

4、光秀の伯父(おじ)は、妻木広忠

江戸幕府が編纂した『寛永家譜』や『寛政重修諸家譜』に

「天正十年、明智日向守光秀滅亡のとき、藤右衛門江州坂本西鏡寺におゐて自害す。光秀か伯父たるによつてなり。時に六十九歳。法名宗真」

(現代語訳:藤右衛門広忠は、天正10年(1582年)明智光秀が山崎の合戦で戦死した後、西教寺で切腹した。藤右衛門広忠は光秀の伯父である。享年69歳。法名宗真。)

伯父とは父母の兄をいい、広忠は明智光秀のおじさんとして最も近い親族であったことがわかります。崇禅寺には当時の位牌も残されています。定光寺の祠堂帳や八幡神社の棟札などにもその名前があります。

5、仮説 明智光秀は妻木一族?

ここで紹介した「光秀の妻」、「妹妻木」、「伯父広忠」が妻木一族であるならば、明智光秀も同じ妻木一族と考えても良いのではないでしょうか。