八幡神社所蔵「朝露」に秘められた悲劇
八幡神社へ奉納されたいきさつは神社所蔵の古文書でわかります。
要約すると、「朝露」は江戸時代初期(約400年前)の妻木城主妻木家頼の秘蔵の刀であったこと、家頼が妻木九八郎に与えたこと、九八郎が喧嘩(けんか)の時に刃こぼれしたこと。紀州徳川家に仕えた妻木嘉左衛門が八幡神社に奉納したことが書かれています。しかし九八郎、嘉左衛門は誰なのか、喧嘩は何の事なのかよくはわかりませんでした。
ところが妻木城址の会の呼びかけで、嘉左衛門の子孫の方から古文書の存在を知りました。これには思いもよらない事実が書いてありました。
まず登場人物を整理しておきましょう。
九八郎と嘉左衛門は兄弟です。2人の父親は誰かわかりませんが、叔父にあたる妻木城主妻木家頼に養われて育ちました。
九八郎は、家頼の子で加賀藩前田家に仕えた左京が戦死し、子どもが無かったのでその後を継ぎます。嘉左衛門は家頼の計らいで紀州徳川家に仕えました。
加賀藩士になった妻木九八郎に、思いもよらぬ災難が降りかかります。
藩主前田公の鷹狩りに富山に同行し、殿様の寝所近くの警護の役目を勤めます。九八郎はついつい居眠りをしてしまいました。
その時突然、同僚の小嶋権平が斬りかかり肩を負傷しますが、九八郎は応戦します。
これが神社の古文書に書かれた「喧嘩」の意味だったのです。
殿様の寝所前でのケンカは許されるものではなく、九八郎は切腹、加賀藩士妻木家は断絶になりました。
しかし九八郎には助九郎という息子がありましたので、妻木一族の相談で、跡継ぎの無かった紀州藩士妻木嘉左衛門の養子に迎えられたのです。
「朝露」は父九八郎の遺品として助九郎とともに紀州に移り、その後養父嘉左衛門が一族の繁栄を願って八幡神社に納めたのです。
一振りの刀にまつわる悲劇が380年の時を越えて明らかになりました。「朝露」を見るたびに九八郎の無念を思い胸が痛みます。
(※現在は妻木公民館郷土資料室に展示してあります)