東農 関ヶ原① 7/22家康より書状が届く ~領地に留まり、上方に何かあった際は出陣してください~

慶長5年(1600年)2月 堀秀治により、上杉景勝に謀叛の兆候があると訴えがあり、五大老筆頭徳川家康は伊奈昭綱を派遣して、上杉景勝に対し、上洛を勧告したが、景勝は応じず、3月、家康は西笑承兌に「謀叛の噂がある」として早期の上洛を勧める手紙を書かせました。
 
しかし、 4月14日、直江兼続はこれを拒絶する手紙(直江状)を家康宛てに返信。
 
5月3日、直江状が家康の元に届き、家康は激怒。会津征伐を決定。
 
6月6日、家康は大阪城を出陣する。
 
7月2日、家康、江戸に到着。一方、宇喜多秀家は京都豊国神社で出陣式を行う。
 
7月17日、西軍総大将 毛利輝元が大阪城に入城する。
 
7月18日、家康の家臣鳥居元忠が籠城する、京都伏見城に宇喜多秀家、小早川秀秋らが攻めかかり伏見の戦いが始まる。
 
7月19日、徳川秀忠が会津に向けて出陣。同日、東軍細川忠興の京都田辺城を守る実弟細川幸隆と父の幽斎に、西軍の小野木重次他が攻め田辺城の戦いが始まる。細川の奮戦により、9月6日まで兵500人で田辺城を守り抜いた。
 
7月21日、家康が会津に向けて出陣。7月22日、岩付(埼玉岩槻)の家康より、妻木家頼に書状が届く。
 
記録御用所本古文書 上巻によると、

「永井右近かた迠之書状、令披見候、依煩然々与無之由、養生一候、此方へ披下儀必無用候、
其元在所ニ候而、上方於替儀者、何時成共可申越候、恐々謹言、七月廿二日  家康(花押影)」

<永井右近太夫 (永井右近 直勝、徳川家康家臣、後に下総古河藩72000石)の元に届いた書状を見ました。私の元へ参上する必要はありません。領地に留まり、上方に何かあった際は出陣してください。>

東京堂出版 記録御用所本古文書 上巻
著者 神崎彰利 編 下山治久 編
旗本700家に伝来する古文書2400通を家別に収録。

妻木城 曲輪1石垣
妻木城 曲輪1石垣
当時妻木家頼は、金山城の森可成の六男、森忠政の信濃国川中島入領に同行せず、美濃にそのまま残っていた。
代わりに田丸直昌が川中島から岩村城に移った。この時、森忠政は東軍に味方し、岩村城に移った田丸直昌は西軍につきました。家康からの書状から推察すると、妻木家頼は、森忠政とともに東軍として出陣する算段でしたが、西軍についた田丸直昌と対峙するため、妻木に残ったと思われます。